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ゆーすけべー日記

はてなBlogってどーなの!?

パーフェクトハードボイルドエッグ #04

迎合するな。書きたいことを書け。あちこちに余計なことを書くな。卵の話に集中しろ。

相変わらず卵は直立不動でテーブルの上に立っていて、相変わらず中身は完璧な完熟卵である。とはいえ、昨日眼が覚めた頃くらいから、僕の頭の中にある卵の映像は少々の変化を見せた。めまいショットを繰り返しているのである。

めまいショットは、僕が生まれる1年前に死んだイギリスの映画監督アルフレッド・ヒッチコックが、その名も『めまい』という作品(原題は<Vertigo>)で採用した映像表現手法である。おそらく——少なくとも僕の希望的観測によれば——『めまい』はめまいショットが使われた世界で初めての作品である。1958年に発表された後から現在に至るまで、映画やドラマ、それにアニメーション作品においても広く使われているテクニックがそれだ。

f:id:kamawada:20170427095350j:plain Copyrighted by Paramount Pictures Corporation.

めまいショットはしばしば登場人物の一人をバストアップの画角で映しながら使われることが多い。また、とりわけ彼、彼女は主人公またはヒロインである確率が高い。もしかして、そういう映像を見たことがあるかもしれない。めまいショットがいざ始まると、観ている側にとっては、フォーカスされている人物にカメラが近寄っている、あるいは離れているような感覚を抱くのだが、実際の映像では人物の大きさは変わらずに、背景だけが広がって観える。単純なズームインでも、ズームアウトでも、カメラの寄せでもないその映像に頭がクラクラすることもある。まるでめまいだ。ちなみに、このテクニックが使われるのは時として、登場人物の心理状況を観覧者に投げかけるのが目的だったりする。だいたい彼、彼女は恐怖心を抱いていたり、複雑で神妙な気分だったりする。

めまいショットを撮影するのは案外簡単なことだ。ズーム機能さえ付いていれば、家庭用のビデオカメラでも出来るし、なんとか頑張ればスマホの動画撮影でも可能かもしれない。まず、めまいショットでフォーカスしたい対象物を決める。協力してくれる友達がいればその人を廊下に立たせてみよう。もしくは、テーブルに置いてあるマグカップを見つけるだけでも良い。ある程度、画角を見定めた後、いよいよめまいショットを開始する。カメラを持ちながらゆっくり対象物に近づくと同時に、カメラを操作しズームアウトさせるのだ。タイミングがうまく合うとめまいショットが完成する。寄るんだけどズームアウトしているおかげで、対象物の見た目は変わずに、とりわけ後ろの背景だけが変化する映像になる。これが種明かしだ。

僕の頭の中の映像では完璧な完熟卵に対して完璧なめまいショットが繰り返されている。卵の背後に映るテーブルの天板や、その向こうに配置されているこげ茶色のキッチンテーブルが、じわじわと広がっている様は少々不気味だが、それがあまりにも完璧なめまいショットのためにある程度の心地よさを感じる。この映像を撮影するカメラマンがいたとしたら、相当腕の良いカメラマンであるか、使っている機材が優れているのか、そのどちらかか両方だろう。さて、このめまいショットの映像は卵の描写としてどのような意味があるのだろうか。ヒッチコックが描いた高所恐怖症の主人公が抱く<恐怖>といった類いの感情をこの卵が持っているかと言えばそうでもない気がしてる。

完熟卵とめまいショット——少なからず、彼は僕に何かを訴えかけようとしている。

このように卵の映像は微々たるものであるかもしれないが、変化をしている。そのうち、完熟卵の殻がメリメリと音を立てて割れるかもしれない。もしかして、空に飛び立つかもしれない。結末は分からない。だからこそ、僕は完熟卵を観察し続ける。

めまいショットについて書いていたらめまいがしてきた。

ワンダーフォン #09

何度も繰り返すが、これは2008年に起こった話だ。

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サキが受講している情報処理の課題の締切である2月14日までの1週間、僕は藤沢の遠藤にあるコメダ珈琲に通った。こういう時にフリーランスという勤務形態は便利である。土日も含めて毎日サキと顔を合わせることとなった。朝起きて、午前中の<集中タイム>を終えて昼食を済ませると、プジョーに乗ってコメダ珈琲まで行く。運転しながら、彼女と作っている課題のゲーム<ジャバシックパーク>について考える。こういうことを思考している時間が僕は好きだった。難しそうな問題を与えられると、「それは難しそうに見えるだけだろう」と勘ぐって、問題を整理する。大抵の場合、それを解決するための新たなる問題が雪だるま式に発生するのだが、一個一個丁寧に着目していく。並べられたりんごに付着した泥を落とすように問題解決について思いを巡らせるのだ。一時間ほどかけていくつかのピカピカなりんごが仕上がる頃、コメダに着く。必ずサキが喫煙席のボックスシートを陣取っているので、僕は彼女の対面に座り、アイスコーヒーの大きいサイズを注文する。課題に取り掛かる前に、彼女は前日に僕と別れた後から今まで起こった「近況」の報告をした。湘南台のツタヤでバイトをしている。昨日、大学の同級生の男の子がやってきた。私は彼のことを憶えているけど、たぶん、彼は私の存在を知らない。彼がアダルトビデオコーナーに入った。何を借りたかは分からない。こういう時に対応するのは男性店員だと決まっている。彼には興味がない。だけど、同級生がどんなビデオを観るのかは気になる……。ある程度、彼女がお喋りに満足すると、僕は堰を切ったように「プログラムを書かないと」と彼女を急かし、課題に取り掛かった。

彼女は飲み込みが早かった。あるいは早い方だった。まず、僕が口頭で今日やる、もしくは今日やれたらいいなと思う段取りを説明する。ボタンを表示してみましょうとか、ボタンが押されると次の画面に遷移させるようにしようとかそういういったことだ。「それってどう作るの?」とサキが聞いてくるので、簡単なヒントを与えてあげる。このライブラリの、このメソッドを呼び出すんだよ。しばらく黙ったままMacBookの画面とにらめっこしてから、彼女はホームポジションがずれたタイピングで、いくつかの文字列を打ち込む。「えー、やっぱ出来ない。タカシさんこっち」と手招きされるので、席を立って、彼女の隣に座り、僕が答えをエディタに書いてあげる。決まって、「あ、すごい動いた!」と大声を出すので、毎度周りの客——特に彼女と同じキャンパスに通うであろう大学生——に見られたらなんとなく気まずいと僕は思ってしまう。それでも、サキは一度、僕が教えてあげると(そのプログラムの書き方に限り)再び同じ質問をすることなく、その機能を使いこなした。煙草が吸いたくなると、彼女の隣を離れ、元いた場所に座り、次にやる段取りを紹介する。

それを繰り返していると、締切の前々日におおよそプロトタイプと言っていいほどのものが出来上がった。立ち上げるとゲームの紹介文が表示されて、ボタンを押せば次の画面に移り、選択画面になる。どの選択肢を選んだかによって最後の画面表示が変わる。
「なんだかしょぼいわね」
二人で並んでMacBookの画面を眺めながめているとサキがぼやくように言った。
「しょぼいけど、一応ゲームとしては成り立っている」
「だけど、全然かわいくないわ。そうね……私はもっと恐竜感が欲しいのよ」
「恐竜感」という言葉気に入ったらしくて、なんどか彼女は呪文を唱えるように繰り返した。僕はそれを聞きながら腕組みをして考える素振りをした。恐竜感という言葉は思いつかなかったが、彼女が満足しないことは予想していた。
「ねぇ。イラストを描くのは得意?」

2月13日、つまり課題提出の前日は出来上がったゲームの骨格をベースに、それを演出する作業を行った。パソコンで絵なんか書いたことがないわとサキは言ったが、ペイントソフト上にはなかなか可愛らしい恐竜の赤ちゃんの絵が出揃った。僕はネットから無料で使える効果音の素材をいくつか探してきて、画面が切り替わる度にファンファーレが鳴る細工を施した。もうその頃になるといくつかのコードを僕が書いていた。サキが書き溜めたの恐竜のイラストをエイヤッとゲーム画面に描画出来るようにすると、演出の作業は完了した。
「すごいわ。ゲームっぽい!恐竜感もあるわ」とサキははしゃいだ。
「これで、君は単位を落とさなくて済む」
「そうね、これなら平気よ。それどころか、なんだか私、自信が付いちゃった」
「プログラミングに?」と僕は訊いた。
「ううん。明日、ゲームを提出すると同時に授業中、作ったゲームをプレゼンしなくちゃいけないのよ」
「プレゼン?そんなのするのか」
「うん。だから私、作るからにはかわいいものを見せたかったの」
「プレゼンの準備はしなくていいのか?」
「大丈夫よ。時間は短いし、ゲームを見せるだけでいいの。それに私、人前で話すの、実は得意なのよ」

会計をしていると、いつもはそそくさ帰ってしまうサキが僕の後ろに突っ立っていた。
「明日も同じ時間にここへ来れる?」と彼女は訊いた。
「うん。来れるけども」と僕は答えた。
「お礼がしたいわ。大したことは出来ないかもしれないけれど。それじゃあ、また明日ね」
そう言うと彼女は振り返り、重厚そうな扉を両手で勢い良く開いて、凍える寒さの暗闇の中に消えていった。

プログラムが完成した安堵感と、考えるべき問題を失ってしまった寂しさを感じながら横浜の家に帰った。シャワーを浴びて、ツボ押し棒で背中やら肩やらを刺激しながら、なんとなくサキのことをずっと考えていた。お礼ってなんだろう。別に要らないのにな。でも、なんだか楽しかったな。……彼女は僕のことをどのように思っているのだろうか。

一瞬、取引先からの電話だと思った。バイブ音が甲高く鳴った。せっかくJavaで作り直したのにまた仕様変更を言われるのではないかと疑ったが、杞憂だった。携帯電話は光ってもいなかった。その代わり、ワンダーフォンが震えていたのだった。

ワンダーフォン #08

僕がコメダ珈琲に着いて喫煙席を見渡すと、サキはボックスシートに座ってホットコーヒーを飲んでいた。下はロングのコットン生地のベージュのスカートに、上はふわふわと起毛したネイビーのセーターを着ていた。どちらもいい感じに着込まれている印象で、古着屋で売ってるほど色褪せているわけではなかった。彼女は昨日出会った時と同じようにMacBook Proを広げ、Javaの本を眺めていた。傍らにはパーラメントの吸い殻が三本入った灰皿が置かれている。僕の顔を見ると「来てくれたのね」と丸い眼を細めて笑った。大きな涙袋が印象的だった。

僕はアイスコーヒーが運ばれてくると訊いた。
「で、バレンタインデーまでの課題ってどんな課題?」
「このJavaっていうのでゲームを作れって言われているの。私、ゲームなんてDSのポケモンをちょっとだけやったことがあるだけよ」
「僕もゲームは苦手だよ……そうだな、スーパーファミコン以来やってないね」
「私と同じようなものね」
「うん。それで、君はどんなゲームを作りたいの?」
「作りたいゲームなんてあるわけないじゃない。とにかく課題を提出するためのテイを整えたいの
僕は腕を組んだ。
「うーん。君は昨日『Hello World』を済ませたプログラミング初心者だ。それに僕らはゲームをあまり好きではないし、僕もプログラマーとはいえ、ゲームを作るのはそれほど得意ではない。けれども、君は一週間後にゲームを完成させなくてはいけない」
そういうと僕はマイルドセブンを一口吸い、顔を上げて煙を上に吐き、それから彼女の方を向いた。頬をわざと膨らませる仕草をして、サキは言った。
「そういう言い方すると、なんだかすごく困難なことに立ち向かうみたいね」
「状況を整理しただけだよ。つまり——なるべく簡単に作れて、そこそこ見栄えのいいゲームを作ればいいんだ」
「そんなゲームってあるの?」
「分からない。でも、それをとにかく考えるんだ。手を動かしてプログラムを書く前にね」
「間に合うの?」
「こういう時は焦っちゃいけないんだ。どう作るかじゃなくて、何を作るかが重要だからね」
サキは首を傾げて訊いた。
「それってあなたの仕事でもそうなの?いつもそんなことを考えているの?」
「うん。常に楽をすることを考えている」
「面白いわね。そういうIT の仕事って難しい……そうね、何て言うのかしら——テクニック?の勝負だと思ったけど違うのね」
「僕には残念ながらそのテクニックがないんだ。だからいかにして問題を簡単に解決するかをまず考える」
「それはなんだか素敵なことに思えるわ」と彼女は真顔で言った。よく見ると茶色い瞳をしていた。
「じゃあ、今日はそれを一緒に考えてちょうだい。私が一週間で作れて、楽しそうなゲーム」

僕らは腹が減る時間までの間、一箱分の煙草を吸って、ドリンクをおかわりして、お互いのMacBookを閉じたまま、どんなゲームを作るか話し合った。彼女が「こんなのはどう?」というアイデアを頷きながら聞いて、僕は頭の中で因数分解するように工数見積を瞬間的に行った。そのゲームを作るのは彼女にとって可能か不可能かを判断していたのだ。おおよそ、ネタが尽きる頃には、3つほどの実装プランが出来上がったから、それをサキに伝えると「いつの間にそんなこと考えていたの?」と驚かれた。結局、画面に出てくる選択肢を選んでいくと<恐竜>が成長するという、でっち上げの育成ゲームのようなソフトウェアを作ることになった。これなら、簡単な条件分岐だけで済む。ちなみに、彼女はどうしても「恐竜」がいいと言った。

夕食の時間なので、その場で食事を取ることにした。僕は網焼きチキンサンドを、サキは僕の勧めでビーフシチューを食べることにした。

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「あら、ほんとにポテトサラダが入ってるわ……私、ポテトサラダって実家で嫌というほど食べさせられたから、最近食べたことなかったのよね。でもこれ美味しいわ」
「言っただろう。コメダ珈琲のビーフシチューはうまいんだ」
「その通りね」
「で、ソフトの名前はどうする?」
「名前?」と大きな声を彼女は発した。
「うん。作ったものには名前を付けてあげないと可哀想だろ。それにプログラムの場合、その名前を元にファイル名を付けたりする。君のことを僕はサキと呼ぶように何事も名前がないと不便なんだ」
「名前ねぇ、考えてもいなかったわ。恐竜にちなんだものがいいわね」
「そうね。君が好きな恐竜」と僕は言った。
「うん。お兄ちゃんのお古の図鑑を読んで好きになった恐竜」
「そういえば、<ジュラシックパーク>のラストに君が今使ってるMacBookでも採用されてるUnixっていうOSを女の子が使うシーンがあったな」
「ジュラシックパークは見たことがあるわ。けど、そんなの覚えてない」
「僕も大して記憶にないよ。けれどこんな感じだったと思う。映画の最後、恐竜が襲ってきて、施設を脱出しなきゃいけないのに扉が閉鎖されている。その時、女の子が突然『私、Unixなら使えるわ』と叫んで、操作パネルのパソコンをいきなり操った。彼女がコマンド打つと扉が開いて脱出に成功するんだ」
「なんだかすごい女の子ね」とサキは言うとビーフシチューの皿にスプーンを突っ込んだまま、しばらく黙って考える仕草をした。僕が網焼きチキンを食べ終わる頃、彼女は眉間に寄ったシワを解放して、言った。
「ねぇ、ジャバシックパークっていう名前はどう?」

ゲームの名前がジャバシックパーク<javassicpark>に決まって、夕食の皿が下げられると、僕らは解散した。昨日と同じように彼女は「自転車で来ているから」と言って、僕が彼女の分まで会計をしているとそそくさと去った。

それからバレンタインデーまでの間、僕はワンダーフォンの存在をすっかり忘れることとなった。

ワンダーフォン #07

サキはやはり慶応の学生だった。現在は大学一年生。一芸入試のような推薦試験をパスして入学するものの、秋学期から授業へはあまり参加しなくなった。ヨーロッパの映画が好きで、家でDVDを借りてみたり、単館上映しているようなところへ出向いてよく観に行く、とペラペラと喋った。僕がどんな映画を観るのかと質問しても、彼女が答える作品はマニアックなものばかりで、僕が分かるものはアルフレッド・ヒッチコックが監督している作品くらいだった。
「大学に映画サークルくらいあるんじゃないのか?」と僕は訊いた。
「あるわ。でもあの人達とは趣味が合わないのよ」と彼女は言った。
「だからかもね。私、学校の授業が好きじゃなくなったの。それに、うちの大学やたらと、グループワークをさせるのよ」
「グループワーク?」
「そう。グループワーク。課題が出されてチームを組んで半年かけて最終発表まで準備するのよ。グループは3人から、多いときには10人。うんざりするわ。私、誰かとつるむのが極端に苦手だわ」
彼女は「OUTDOOR」のロゴが書かれた黒いリュックから、新しいパーラメントの箱を取り出して、カウンターの上に置かれたソリッドなジッポで煙草に火を付けた。
「情報処理はグループワークじゃないのか?」と僕は訊いた。
「違うわ。単独行動。それは嬉しいのだけれど、私本当にコンピュータが苦手なの。大学が始まるまでパソコンなんていじったことがなかったし、携帯だって未だにPHSよ。コンピュータ、興味はあるんだけどね。でも、この本によると私は今『Hello World』って表示しようとしているんだけど、なんでこんだけ苦労しなくちゃいけないのか分からないの。まず、MacBookを充電するところから苦労したわ。家に空きのコンセントがなかったのよ。充電ってそれなりに時間がかかるでしょ。テレビやら炊飯器のコンセントを抜くわけにはいかなかったわけ。だから、自転車で電気屋まで行って電源タップを買ってきたわ。それから、エディタってやつをインストールするのにも手間取った。やっとプログラムをかけると思ったら、このjavac<ジャバシー>ってのが動かないの。ねぇ、コンピュータを仕事にするってこんなに毎日大変な思いをするの?まるで堂々巡りのようだわ」
「ヤックシェービング」と僕は答えた。
「なぁにそれ?」
「ヤックっていうのはチベットだかモンゴルにいる毛の長い羊みたいな動物なんだ。その毛を刈るのはひどく手がかかる。君が『Hello World』を印字するまでに、タップを買いに行ったり、エディタをインストールしたりして、やることが膨れる様を『まるでヤックシェービングのようだ』と言ったりする。業界の用語なんだ。僕らの仕事はヤックシェービングを毎日やるような類いのものさ」
「へー。そんな動物がいるんだ。どれだけ毛が長いわけ?」
「それは知らないな。そんな言葉が出来るくらいだから相当長いんじゃないか50cmくらいかな」と僕は笑った。
「なんだかロン毛の動物って不気味ね」
「おそらく不気味な動物なんだろうね」
「まぁ、言い得て妙かもしれないわね。私はそんな動物の毛を刈るなんてやりたくないわ」
「うん。みんなそうかもしれない。とはいえ誰かが言ってたよ。『人生は大体においてヤックシェービングをしているようなものだ』とね」
「私、そんな面倒な人生嫌だわ」と彼女は吸い終わったパーラメントを灰皿に押し付け、もう一本取り出した。
「ひとまずこの『Hello World』っていうのをやってみたいわ」

僕とサキはコメダ珈琲の喫煙席の中央に置かれたカウンターテーブルに二人並んで座りながら、彼女のMacBook Proを眺め、主に僕がキーボードを操作し、プログラムを動かした。プログラムを書く上で最も初歩的な事柄である「Hello World」という文字列を表示させるのが第一関門だったのだが、まぁ僕はプロのフリーランスのプログラマーだ。なんども経験のしたことがあることだったし、うまくいかない事例を山ほど知っている。彼女の場合は「javac」というプログラムをコンパイルするコマンド実行のためのパス設定が間違っていた。それを指摘して作業を終えると程なく「Hello World」がターミナルソフト上で動いた。

「あら、これで動いてるの?」
「うん。これが『Hello World』。プログラミングの第一歩だよ」
「なんだかあっけないわね。でも、あなたすごいわ。私が一日中かけて悩んでいたことをあっという間に解決した」
「同じような経験を以前にも何度かしたからね」
彼女は腕にはめていた、小さな白いバンドのG-Shockの時計をチラリと見た。
「あら、私、そろそろいかないと」
「そうか」
「うん。バイトがあるの。ねぇ、明日もここへ来る?」
「来るよ。ここのコメダ珈琲は居心地がいいからね。仕事が捗る」
「よかったら、明日もこの『Java』って言うの教えてくれない?課題の締切がもうすぐなのよ」
「いつまでなんだ?」
「そうね……ちょうどバレンタインデーだわ」
「一週間しかないじゃないか」
「だから頼んでいるのよ。お礼は……考えておくわ」
「車で送ろうか?」
「いいのよ。どうせ自転車で来ているし」
そう言うと彼女は自分の伝票を素早く手に取り、席を立った。

これは2008年の話だ——もう、9年前になる。27歳の当時では感じなかった老いを今でははっきりと認識している。もう僕は若くはない。

過去の出来事を思い出すことは実に力のいることで、僕は27歳にタイムスリップして、その時の自分になりきり、神経をすり減らす。そして、このように拙い文章に書き起こしている。そうでもしないと、忘却してしまう事柄が僕の中にはたくさんあるのだ。とはいえ、それを忘れたくないのか、忘れたいのかは僕にはよく分からない。今やっている行為はある種の精神安定のための慰めだ。

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太宰治は自殺して、村上春樹はトライアスロンをしている。それが同じ動機からだと把握出来たのは最近のことだ。

自己治癒をしているはずが、自ら命を立ったり、身体を動かさなくてはいけなくなるのは本末転倒な気がするが、まぁそんなものだ。

そういえば、Linuxと呼ばれるOSソフトウェアの開発者リーナス・トーバルズはその開発動機についてこう言った。

Just for fun

我々は楽しいからそれをやっている。ただそれだけだ。

ワンダーフォン #06

すっかりサリーに紹介された藤沢の外れにあるコメダ珈琲が気に入ってしまった。そもそも僕の地元は藤沢で——といっても藤沢駅近くなのでコメダ珈琲のある遠藤とは遠くはなれているが——土地勘はあったし、道中のドライブは気晴らしになるし、駐車場は無料だし、何より自宅近くの喫茶店に比べて抜群に居心地が良い。

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昼食を済ませると、プジョーに乗り片道1時間弱をかけてそこへ向かった。車の中ではオレンジカウンティのパンクロック(オフスプリング、ゼブラヘッド、ノー・ダウト……)が流れていた。僕はそのディストーションサウンドを耳に入れながら、サリーの言っていた「あなたが本当に望むこと」について考えた。収入は一人暮らしをするなら十分と言っていいほど得ているし、フリーランスという業態上、特に地位も必要ない。彼女も欲しくない。結婚もしたくない。子供もいらない。時間も欲しくない。むしろ暇な時間がたっぷりあるくらいだ。暇といえば、あの頃から僕の中に存在する暇を弄ぶような<寂しい気分>をなんとかしたいとは思っていたが、それを直接伝えたらサリーに却下されたしな。僕は何を望んでいるんだ? 願いを叶えるワンダーフォンを手にしながら、それを僕は活用出来ないでいるのかもしれない。

珍しくコメダ珈琲のテーブル席が埋まっていた。仕方ないのでカウンターに案内され、MacBook Airを広げた。モバイルルーターを起動すれば、こんなところにいてもインターネットに繋がる。便利な世の中だ。僕はターミナルアプリを立ち上げ、クライアントのサーバーの中にログインし、諸々のソフトウェアをインストールし、作りたてのWebフォームのプログラムをデプロイした。

二杯目のドリンクを注文しようとした頃、隣の席に近隣の大学——おそらく慶応の藤沢キャンパスだろう——に通うと思われる女子大生が座っているのが分かった。僕と同じようにMacBookを目の前に置き(僕が使っているものよりハイスペックで画面も大きいMacBook Proだった)、かたわらの「Java」と書かれたプログラミング技術書を難しい顔をしながら眺めていた。注文したサマージュースがやってくると、ストローですすりながら彼女を横目で観察した。時々MacBookに向かって文字を打ち込むも、タイピングは覚えたての箸使いのように拙かった。数文字打っては、「Java」の本を時間をかけて読み、再びタイピングすると、首を傾げてから、パーラメントを吸ってまた「Java」を読んだ。パーラメント、Javaの本、タイピングの繰り返しで、全く先に進んでいないようだった。

僕の方は、Webフォームの動作確認も済んで、あとはクライアントに報告するだけだ。残念なことに、この取引相手はメールを恐ろしく読まないタイプのクライアントだったから、しかたなくワンダーフォンじゃない方の携帯電話を取り出して、その場で電話をかけた。納品完了しました。プログラムはいつも通りPHPで作っています。そちらのサーバーで動くことを目視しました。確認お願いします……相手は言った。PHP?そんなの聞いてないぞ。うちはJavaが分かる人間しかいないからJavaで作り直してくれ。「Java?」と僕はその瞬間大きな声を出してしまった。つい周りを見回して、隣の女子大生と眼があった。まんまるのクリクリの瞳をしていた。僕はやれやれ仕方がないな、今時JavaでWebフォームかよ、と苛立ちつつも、電話口にJavaのプログラムを納期までには動くようにするから、と伝え電話を切った。

隣の女子大生が話しかけてきた。それもそうか。Javaの本を読んでいる彼女の隣で、僕は「Java?」と大きく声をあげてしまっていた。
「Java分かるんですか?」
「うん。一応プロだからね」
「え、すごーい。私、さっきからJava全然分からないんですけど」
「課題かなにか?」と僕は尋ねた。
「はい。私授業サボっちゃってて、昨日から手を付けたんですけど、このコンパイルっていうのがどうしても出来なくて……」
コンパイル——つまりプログラムを動かすための初歩的な手順すら出来てなかったのか。
「そりゃあ、大変だな」
「そうなんです。まだ何にも動いてないんです」
彼女は僕から目をそらし、ラスト一本のパーラメントに火を付けた。
「私、コンピュータとか苦手なのに、情報処理の授業受けなくちゃいけなくて、それに大学に相談出来る友達もいないの」
「それは、大変だ」
同じような台詞しか出てこなかった。
「それ、サマージュースですか?」と僕が飲んでいたドリンクを指差して彼女は言った。
「うん。その通り」
「私もコメダのサマージュース好きなんです。今は珈琲を飲んでるけど。柑橘系の粒がプチプチしてて美味しいですよね」
僕はなんだかその頃から、面倒な気分とは裏腹に好奇心が芽生えてきた。元カノに言われたことがある。「あなたは自分でSだと思っているかもしれないけど、本当は奉仕的なMよ」と。そう、僕はある意味奉仕的な活動が好きなのかもしれない。
「よかったら、課題を手伝おうか?」
「いいんですか?」
「うん。どうせ暇だし、仕事も大したことはしていない」
「じゃあ、コンパイルだけでもお願いします。この<ジャバック>っていうのがどうしても出来なくって」
「それは大抵の人は、javac<ジャバシー>と呼ぶんだよ」

こうして、彼女——サキにプログラミングを教えることになった。このことが<僕自信が僕の望み>を知るキッカケになるとは思いもよらなかった。