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ゆーすけべー日記

はてなBlogってどーなの!?

ワンダーフォン #12

サキとは彼女の自宅近く、湘南台駅前のスーパーマーケットで待ち合わせをした。彼女は自転車で後から追いつくと言い、僕は大きなコインパーキングへ車を停めた。煙草を一本吸ってからスーパーマーケットへ向かうと、ひっきりなしに主婦的な女性かおばあちゃんが入り口を出たり入ったりしていた。時刻は午後5時になる。時計から目を上げると、待たせちゃったわねと大して悪びれてない様子でサキが手ぶらでやってきた。

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お礼に料理を作るとはいえ、サキの家には食材が十分足りていないらしく、こうしてスーパーマーケットに寄ることになった。サキは野菜コーナーから精肉コーナーまで、まるで優秀なカーナビに導かれるように無駄なく点検していった。欲しい食材があると、2秒間程度それらを凝視し、一度手に取ったじゃがいもやら豚肉やらを迷うことなく僕が持っているカゴに放り込んだ。最後にアルコール飲料が冷やされている棚の前へ行くと、私が飲むからとチューハイの缶を4本追加した。僕は買い物客でごった返す狭いスーパーマーケットの中で彼女を見失わないか必死だった。

会計を終えて、外に出ると、辺りはすっかり真っ暗になっていた。僕がスーパー袋をぶら下げて、彼女の家へ向かった。やはりひどく寒く、袋を持つ左手の感覚がなくなるほどで手袋でも欲しいなと思ってしまった。サキはダッフルコートのポケットに両手を突っ込んだまま僕の前を歩いていた。
「私ね。男の人を家に入れるのって初めてなの」とサキが振り返りながら言った。
「そうなのか。……それが僕でいいのか?」
「いいのよ。たぶん」とサキが前に向き直した。それから言った。
「だって、そのことを私が望んでいるかもしれないから
そう遠くはない彼女の家に着くまで、僕は黙ってその言葉を頭の中で反芻した。私が望んでいるかもしれないから。これはいわゆるフラグ(特定のイベント成立のために条件が揃うこと、もしくはコンピュータの世界では条件の有無を表すための変数)なのか?しかし、「望む」という言葉を彼女が使ったことに違和感を感じるぞ……。

散らかっているかもしれないけど、これでもさっき片付けたのよと通されたサキの部屋は一人暮らしにしてはあまりにも広く、女の子のそれにしてはあまりにも質素だった。ワンルームの間取りではあるが、その一室が六畳一間の僕のアパートに比べると倍ほどの面積だった。それに加えて三口コンロのキッチンと独立洗面台を備えていた。部屋にひかれたカーペットの中央にはこたつが配置されていて、周りにはDVDプレイヤーを携えた液晶テレビと、主に文庫本が無理やり収納されている背の低いカラーボックス、それにシングルサイズのベッドがあった。なるほど。部屋の中にあるそれぞれのオブジェクト同士の距離が広いと、このように生活感を感じないものなのか。

手伝うよと言っても、あなたはこたつで待っててと返されるので、しばらくニュース番組を眺めながら待った。日米首相会議がもうすぐ始まる、東京の調布の方で火事が起こった、とある芸能人の不倫が発覚した……。普段テレビを持たず、テレビを見ない生活をしているので物珍しい感じもしたが、決して興味深いものではなかった。それよりも、女の子の家に上がり込む方が珍しい気がした。最後に女の子の部屋で二人っきりになったのはいつの頃だろうか?

料理は決して30分で作ったとは思えないほどの出来栄えだった。生野菜サラダとピーマンのきんぴら、お味噌汁、そして肉じゃがが目の前に置かれた。
「こりゃすごい。よくこんな短い時間で作れたな」
「私、料理を楽して作るのは得意なのよ。まぁお味噌汁だけはインスタンスで妥協しちゃったけど。味は……あんまり人に食べてもらったことがないから保証できないけどね」
「肉じゃがなんて面倒じゃないのか?」
「裏技があるのよ」
「裏技?」
「うん。普通はしょうゆ、砂糖、みりんを用意しなくちゃいけないんだけど、今回の場合は焼肉のタレを使ったの」
「焼肉のタレ?そんな風には思わなかったけどな。しっかり肉じゃがの味だよ」
「焼肉のタレにはちゃんと、しょうゆと砂糖とみりんが入っているのよ。まぁにんにくとか余計なものが入っているけど、意外と肉じゃがになるのよ」
「なんだかおんなじだね」
「同じ?」
「うん。プログラミングと。いかにして楽をするか」
「あら、そうかしら。そう言われればそうかもしれないわね」
サキは思い出したように、キッチンからチューハイの缶を2本持ってきた。
「あなたも飲んで」
「え?知ってるだろう、僕は車で来ているんだぜ」
「湘南台駅から相鉄線で横浜に帰れるわ」
「車を置いてけって言うのか」
「いいじゃない。たまには」
サキの言う通り、久しく酒を飲んでいないし(シゲルと横浜駅近くの居酒屋で飲んだ以来か?)、なによりサキの眼が座っていて訴えかけているようだった。
「分かった。飲むよ」

一度、車で帰ることを諦め、酒を飲みだすとなぜだか急に楽な気分になった。僕らはお笑い芸人のコンビがローカルバスを乗り継いで静岡の熱海から石川の金沢まで行けるかチャレンジをするというテレビ番組を見た。サキもDVDを見るばかりでバラエティ−番組など見るのは久しぶりだと言ったが、酒が入っているせいか二人して笑った。だいたい食べ物を食べ終わって、姿勢を崩す際に、こたつの中で僕の足がサキの足にあたった。ニヤついた上目遣いの眼でサキは僕の方を向いた。サキがわざと足を僕の方に寄せてきて、結果、足相撲をしてるような格好になった。声を上げて笑う彼女は楽しそうで、やたら僕はドキドキした。

食器の片付けは僕がやった。サキが私がやるわよと言ったが、中華料理屋で皿洗いのバイトをしたことがあるから、僕は皿洗いのプロなんだと説得した。実際問題、トレイの中にはそれなりに綺麗になった器の類いが整然と並べられた。その間、サキは僕の背後からワインのボトルを見つけ出してきて、こたつに持っていき、2つのグラスにそれを注いだ。テレビは消されていた。

パーラメントに火を付けて、ワインのグラスを握りながらサキが訊いた。
「ねぇ、あなたが最後にエッチなことをしたのっていつなの?」
「うーんとね……」
サリーの音声読み上げの声が脳裏をよぎった。そういえば、彼女は今日僕に「プリティーゾーン」という関内にある風俗店に行けと指示していたのだった。
「君と会うちょっと前かな?」
「え、彼女?」
「違うよ。彼女はいないって言ったじゃないか」
「じゃあ何?ナンパ?」
「まぁナンパみたいなもんだね」
まさか、ワンダーフォンのサリーにお願いしたらセックス出来たとは言えない。
「へー。家に連れ込むの?」
「んーと。その時はホテルに行ったね。とっても興味深いホテルだったよ」
それから僕は相撲取りみたいな図体の女の子と行った六本木のハードSMホテルの件をなるべくソフトに解説した。
「そういうのってすっごく興味があるわ。でもなんというか……」
サキは僕の背後にある本棚に収納されている本の背表紙を読み取るように視線を移した。
「やっぱり怖いの」
残っているワインを一気に飲み干し、グラスをコンっとテーブルに置くと彼女は言った。
「怖いけど、一度は乗り越えないといけないわよね」

その時、バイブ音が鳴った。僕のジーンズの右ポケットに入れた携帯電話ではなかった。サキの目の前に置かれた彼女の携帯電話は微動だにしていなかった。サキは周りを見渡す素振りをした。僕は僕のリュックを引き寄せ、その中に入れたワンダーフォンを手探りだけで確認してみた。それは震えていなかった。——つまり、着信があったのは僕のワンダーフォンではなかった。

ワンダーフォン #11

この不思議な電話にまつわる物語(それに加えて、完熟卵についての考察)は一切の推敲や辻褄合わせを行わないで文章に残している。過去に書いた<節>に文句があろうとも放っておいている。登場人物の名前が紛らわしいからという理由で置換して修正することもしていない。頭の中で思いついた事実が、過不足ある状態でそのまま表現されていると言っても過言ではない。それをある意味(僕の頭の中で起こってしまった)ノンフィクションと捉えることが出来るかもしれないし、丸裸になって渋谷のスクランブル交差点を歩く姿を僕は妄想しかねない。  

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おおよその物語や文章はそれを(エディタやもう広く使われていないであろう原稿用紙に)書き表す時間と同程度の、もしくはそれ以上の時間をかけて加筆され、無駄な部分が削られる。リズムを整えるために文言を修正する。冗長なエピソードが見つけたら、カットアンドペーストして、よりスタイリッシュなものに変える(カットされた文章はほとんど使われることはない)。描写を加えたい時には、自らに問いを投げかける。「そこでは何が起こったの?いつのことだった?何が見えた?何を感じた?……」と。文芸書や新聞に連載する際にも——もっともそのようなことが出来る立場の人物は限られているが——推敲という作業は少なからず行っているだろう。でも、この文章の場合はどうだろう。実に<生>に近い。いや、ほぼ<生>である。

一方、ファーストインスピレーションが大事なケースがある。……と、書いておきながら<ファーストインスピレーション>という言葉が広く使われているのか気になって、Google検索してみたが、トップにはYahoo!知恵袋のQ&Aが引っかかった。GoogleのIMEの候補にも当然の如く出てこなかった。おそらく一般的な言葉ではあるまい。まぁとにかくファーストインスピレーション——文章を書く段においては、真っ先に浮かんだ言葉の集合——はとても大切に扱わないといけない。なぜなら、それこそが起こったことそのものだからだ。

Mr.Childrenのタブ譜が書かれた分厚い冊子を開きながら、コードをかき鳴らすだけの伴奏をコピーするのに飽きている頃、ペンタトニックスケールを発見した。ジミー・ペイジのリフを改造しながら、オリジナルの<手癖>を作り出し、ひたすら、気の向くままに15Wのマーシャルのアンプから雑音を鳴らしていた。——自由。例えるならば、こういうことだ。僕らはソロを弾きたければ、ペンタトニックスケール内の音を適当に鳴らせばいいし、スケールを外しても良い(ジャズっぽくなったり、和風になったりする)。中にはご存知の通り右手で弦を抑える人もいれば、歯やマキタのドリルでピッキングするギタリストもいる。無論、曲を作りたければCメジャースケールの簡単なパワーコードを組み合わせれば作曲が出来る。

自由を発見した時に感じるあの感覚を長い間、僕は忘れてしまっていのかもしれない。けれども、発見された自由はもう二度と(僕自身において)発見されることがない。歳を取れば取るほど、発見出来る自由は少なくなる。

さて、自由であればあるほど、ファーストインスピレーションに頼らざるを得ないのだろう。書くことに限らず、曲を作る際にも、ジャムセッションをする時にもそれは通ずることである。一度書いてしまった文字列は、遂行し終わった文字列に比べてインパクトを失っているケースが多々発生する。直せば直すほど(細かい表現を含めて)論理崩壊することもある。それどころか——それは当然のことだけれども——ファーストインスピレーションがなければ物語は進行しない。稀にこうした文章を見せた後に訊かれることがある。「意図はなんだ?」と。僕はそう問われると言葉に詰まってしまう。<意図>なんて最初から全く考えていなかったからだ。ファーストインスピレーションに赴くまま、起こってしまったことを書いただけだ。いや、正確に言うならば、その文章は書かれてしまっただけのことだ。

書きたいから書く。だから時たま(このように)脱線をする。

ワンダーフォン #10

慌てて震えるワンダーフォンを手に取った。サリーからの着信があったのは、元旦の早朝、川崎堀之内のコインパーキング——つまりワンダーフォンを手に入れたばかりの時——以来だ。こちらから電話をかけることがあっても、サリーから着信をよこすことはあれからなかった。
グリーンの通話ボタンを押して電話に出た。
「もしもし?」
「お久しぶりですね。タカシさん」とサリーは言った。いつもならば、カタコトに聞こえる彼女の声が幾分ナチュラルに感じた。単なる気のせいか、もしくは僕が彼女の音声読み上げチックな発声に慣れてしまったからかもしれない。
「久しぶり。君から僕に電話をかけるなんて珍しいじゃないか」
「たまにはそういうこともありますよ。タカシさん」
「そうか」
「そうです」と彼女が言った後、しばらく間が空いた。僕は慶応の大学生サキと彼女の課題をこなすことに夢中で、ここ一週間、ワンダーフォンに気を使っていなかったことを見透かされている感じがして、気まずい気分になった。
「あなたが行くべきところがあるのです」とようやくサリーが口を開いた。
「行くべきところ?それは、つまり……そこへ行けば僕の望みを叶えられるということか?」
「ザッツライト!」といきなり弾んだ声をサリーは出した。こんな口調は聞いたことがなかった。そのまま彼女は続けた。
「明日の午後2時、関内伊勢佐木町にある『プリティーゾーン』というお店に行って自分の名前を告げて下さい」
それから彼女はその店への関内駅からの順路を早口で喋った。
「ちょっと待て、サリー。それってまた風俗店じゃないのか?」
「ザッツライト!」と彼女はまた叫んだ。
「その場所に明日行けば、あなたの望むことに少しでも近づけるはずです」
「サリー。申し訳ないが、明日は知り合いと会う約束があるんだ」
「あなたはあなた自信が本当に望んでいることを把握してないようですね。必ず明日『プリティーゾーン』という場所へ行って下さい。そのうち、この電話をあなたが持っている意味が分かるはずです」
僕がワンダーフォンを持っている意味?
「以前と同じようにお店の代金は支払い済みです。ご安心下さい」
次の瞬間、ブチッという鈍い音が聞こえて通話が途切れた。

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明日はサキと会う約束がある。彼女は課題を手伝ってくれたお礼がしたいと言った。けれどもワンダーフォンのサリーは明日、『プリティーゾーン』という関内にある風俗店に行けと告げた。ワンダーフォンは僕が記憶を無くした元旦にいつの間に手にした「望みを叶えてくれる」らしい不思議な電話……。

小一時間、ツボ押し棒で肩を刺激したり、ベランダに出て煙草を吸ったり、MacBookに映るプログラミングコードを眺めたりして考えてみたが、明日の午後、僕はどういう行動を取ればいいのか結論は出なかった。ワンダーフォンを右手に握った。こいつを揺すれば再びサリーと通話が出来る。
サリーが「はい、タカシさん。ご用事でしょうか?」と電話に出た。
「さっきも言ったけど、明日は約束があるんだ。どうしても関内には行けない」
「あなたはそれを本当に望んでいるのですか?」
「ああ、僕は本当にその子に会いたいんだ」
「ユーアー、ア!ライヤー!」とドスの効いた声でサリーが言った。これまた聞いたことない口調だったし、あからさまな日本人的英語の発音だった。
「私からはもうこれ以上何も言うことがありません」
僕は声に出さずに溜息をついた。通話を切られないうちにサリーに訊いた。
「君は何者なんだ?」
「今はまだ言えません。それでは」
ブチッ。

次の日、2月14日バレンタインデーはよく晴れた。その代わり北風がダウンジャケットを突き抜けるほど吹いてきて、実に寒かった。プジョーに乗り込むと三ツ沢から横浜新道に乗り、藤沢の遠藤に向かった。

からかわれてる。そうとしか僕には思えなかった。偶然手にしたかまぼこ板みたいな、電話とも分からない電話に踊らされるわけにはいかない。まぁ、こいつのおかげで中学の同級生、それも昔から好きだったアヤコとセックスは出来たのは喜ばしいことだったのかもしれないが、さほど気持ちのよいことではなかった。そういや、相撲取りみたいな女の子に出会って、3万円払ってハードSMなホテルでセックスをした。<いく>のに目をつぶらなくちゃいけないほど、大変な思いをした。僕の望みを叶えますだ?全くもってサリーはおかしなことを言っている。僕はそれを望んでいたのではないはずだからだ。

コメダ珈琲に着いて、喫煙席を見渡すと、いつものボックスシートにサキが座っていた。Javaの本の代わりに分厚い文庫本を読んで、パーラメントを吸っていた。
「プレゼンはどうだった?」とアイスコーヒーを頼んでから彼女に訊いた。
「バッチシよ。他の同級生のプレゼンに比べて、一番拍手が大きかったし、先生からは『できが良い』って褒められたわ」
「それは良かった」
「全部、タカシさんのおかげよ」
「でも、恐竜を育成するゲームを考えたのは君だし、何より<ジャバシックパーク>っていう名前を付けたのも君だ」
「それはそうだけど……こういうのって誰かのアシストなしでは作れないものよ。私にとってその人は情報処理の先生でも、同級生でもなく、あなただったの。あなたは——少なくともプログラムでゲームを作ることにおいては——アシストが上手だわ」
「僕が君にやったアシスト的なことを皮肉を込めて言うための言葉があるよ」
「どんな?」
「誘導尋問」と僕は答えた。
サキは考える素振りを見せたあと、唇を歪ませてニヤついた。

プログラミングの課題がない分、僕らはいつも以上にプライベートな話をした。サキから彼女はいないのか?と質問をされた。いないよ。いつから、いないの?半年くらい前からかな。どうして別れちゃったの?……僕は同棲していた件と、結婚まで考えていたこと、そして、彼女が(おそらく)浮気をしていて(僕が)辛い一ヶ月を過ごしたこと、ついに別れを切り出したらその二時間後には二度と会うことがなくなったというエピソードをなるべく面白おかしく伝えた。サキは神妙な面持ちで聞いていた。
「それほど仲が良かったのに、あっけなく別れてしまう、なんてあることなのね」とサキが言った。
「あっけなくはないよ。僕は1ヶ月間、家に帰るのが億劫だったほどキツい時期を過ごした」
「家に帰りたくないなんて思ったことがないわ。今は一人暮らしだし、実家にいた時は親と関係も良好だったし」
「まぁ、そのうち同じような気分を味わう時が君にも来るかもしれない」
「なるべくならそれは避けたいわ」
「人生経験としては悪くないかもよ。ところで、君には彼氏がいる?」
「いるわけないじゃない。いたとしたら、その彼に課題の相談をしているわ」
「その彼がアシスト上手かどうかは分からないぜ」
「そうね。その通りだけど……」
右肘をテーブルに置いたまま、右手の人差し指と中指に長っ細く映る煙草を挟んで、その煙の行く先をぼんやりとサキは眺めていた。
「私、今まで彼氏って出来たことがないのよ」
「そうか」
「そうよ」
店員さんが水を汲みにやってきた。サキも僕も手元のドリンクが尽きていた。
「でも」と力を込めた声をサキが放った。
「お礼がしたいわ。これから時間ある?」
「あるよ。僕はいつだって自由に時間を作れる」
「私の家に来て。料理をごちそうさせてもらうわ」
「そりゃありがたい」

その時、ワンダーフォンが震えていたのに僕は気づかなかった。ワンダーフォンはリュックのポケットに入っていたし、何より着信履歴を見る機能がワンダーフォンには付いていなかった。

パーフェクトハードボイルドエッグ #04

迎合するな。書きたいことを書け。あちこちに余計なことを書くな。卵の話に集中しろ。

相変わらず卵は直立不動でテーブルの上に立っていて、相変わらず中身は完璧な完熟卵である。とはいえ、昨日眼が覚めた頃くらいから、僕の頭の中にある卵の映像は少々の変化を見せた。めまいショットを繰り返しているのである。

めまいショットは、僕が生まれる1年前に死んだイギリスの映画監督アルフレッド・ヒッチコックが、その名も『めまい』という作品(原題は<Vertigo>)で採用した映像表現手法である。おそらく——少なくとも僕の希望的観測によれば——『めまい』はめまいショットが使われた世界で初めての作品である。1958年に発表された後から現在に至るまで、映画やドラマ、それにアニメーション作品においても広く使われているテクニックがそれだ。

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めまいショットはしばしば登場人物の一人をバストアップの画角で映しながら使われることが多い。また、とりわけ彼、彼女は主人公またはヒロインである確率が高い。もしかして、そういう映像を見たことがあるかもしれない。めまいショットがいざ始まると、観ている側にとっては、フォーカスされている人物にカメラが近寄っている、あるいは離れているような感覚を抱くのだが、実際の映像では人物の大きさは変わらずに、背景だけが広がって観える。単純なズームインでも、ズームアウトでも、カメラの寄せでもないその映像に頭がクラクラすることもある。まるでめまいだ。ちなみに、このテクニックが使われるのは時として、登場人物の心理状況を観覧者に投げかけるのが目的だったりする。だいたい彼、彼女は恐怖心を抱いていたり、複雑で神妙な気分だったりする。

めまいショットを撮影するのは案外簡単なことだ。ズーム機能さえ付いていれば、家庭用のビデオカメラでも出来るし、なんとか頑張ればスマホの動画撮影でも可能かもしれない。まず、めまいショットでフォーカスしたい対象物を決める。協力してくれる友達がいればその人を廊下に立たせてみよう。もしくは、テーブルに置いてあるマグカップを見つけるだけでも良い。ある程度、画角を見定めた後、いよいよめまいショットを開始する。カメラを持ちながらゆっくり対象物に近づくと同時に、カメラを操作しズームアウトさせるのだ。タイミングがうまく合うとめまいショットが完成する。寄るんだけどズームアウトしているおかげで、対象物の見た目は変わずに、とりわけ後ろの背景だけが変化する映像になる。これが種明かしだ。

僕の頭の中の映像では完璧な完熟卵に対して完璧なめまいショットが繰り返されている。卵の背後に映るテーブルの天板や、その向こうに配置されているこげ茶色のキッチンテーブルが、じわじわと広がっている様は少々不気味だが、それがあまりにも完璧なめまいショットのためにある程度の心地よさを感じる。この映像を撮影するカメラマンがいたとしたら、相当腕の良いカメラマンであるか、使っている機材が優れているのか、そのどちらかか両方だろう。さて、このめまいショットの映像は卵の描写としてどのような意味があるのだろうか。ヒッチコックが描いた高所恐怖症の主人公が抱く<恐怖>といった類いの感情をこの卵が持っているかと言えばそうでもない気がしてる。

完熟卵とめまいショット——少なからず、彼は僕に何かを訴えかけようとしている。

このように卵の映像は微々たるものであるかもしれないが、変化をしている。そのうち、完熟卵の殻がメリメリと音を立てて割れるかもしれない。もしかして、空に飛び立つかもしれない。結末は分からない。だからこそ、僕は完熟卵を観察し続ける。

めまいショットについて書いていたらめまいがしてきた。

ワンダーフォン #09

何度も繰り返すが、これは2008年に起こった話だ。

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サキが受講している情報処理の課題の締切である2月14日までの1週間、僕は藤沢の遠藤にあるコメダ珈琲に通った。こういう時にフリーランスという勤務形態は便利である。土日も含めて毎日サキと顔を合わせることとなった。朝起きて、午前中の<集中タイム>を終えて昼食を済ませると、プジョーに乗ってコメダ珈琲まで行く。運転しながら、彼女と作っている課題のゲーム<ジャバシックパーク>について考える。こういうことを思考している時間が僕は好きだった。難しそうな問題を与えられると、「それは難しそうに見えるだけだろう」と勘ぐって、問題を整理する。大抵の場合、それを解決するための新たなる問題が雪だるま式に発生するのだが、一個一個丁寧に着目していく。並べられたりんごに付着した泥を落とすように問題解決について思いを巡らせるのだ。一時間ほどかけていくつかのピカピカなりんごが仕上がる頃、コメダに着く。必ずサキが喫煙席のボックスシートを陣取っているので、僕は彼女の対面に座り、アイスコーヒーの大きいサイズを注文する。課題に取り掛かる前に、彼女は前日に僕と別れた後から今まで起こった「近況」の報告をした。湘南台のツタヤでバイトをしている。昨日、大学の同級生の男の子がやってきた。私は彼のことを憶えているけど、たぶん、彼は私の存在を知らない。彼がアダルトビデオコーナーに入った。何を借りたかは分からない。こういう時に対応するのは男性店員だと決まっている。彼には興味がない。だけど、同級生がどんなビデオを観るのかは気になる……。ある程度、彼女がお喋りに満足すると、僕は堰を切ったように「プログラムを書かないと」と彼女を急かし、課題に取り掛かった。

彼女は飲み込みが早かった。あるいは早い方だった。まず、僕が口頭で今日やる、もしくは今日やれたらいいなと思う段取りを説明する。ボタンを表示してみましょうとか、ボタンが押されると次の画面に遷移させるようにしようとかそういういったことだ。「それってどう作るの?」とサキが聞いてくるので、簡単なヒントを与えてあげる。このライブラリの、このメソッドを呼び出すんだよ。しばらく黙ったままMacBookの画面とにらめっこしてから、彼女はホームポジションがずれたタイピングで、いくつかの文字列を打ち込む。「えー、やっぱ出来ない。タカシさんこっち」と手招きされるので、席を立って、彼女の隣に座り、僕が答えをエディタに書いてあげる。決まって、「あ、すごい動いた!」と大声を出すので、毎度周りの客——特に彼女と同じキャンパスに通うであろう大学生——に見られたらなんとなく気まずいと僕は思ってしまう。それでも、サキは一度、僕が教えてあげると(そのプログラムの書き方に限り)再び同じ質問をすることなく、その機能を使いこなした。煙草が吸いたくなると、彼女の隣を離れ、元いた場所に座り、次にやる段取りを紹介する。

それを繰り返していると、締切の前々日におおよそプロトタイプと言っていいほどのものが出来上がった。立ち上げるとゲームの紹介文が表示されて、ボタンを押せば次の画面に移り、選択画面になる。どの選択肢を選んだかによって最後の画面表示が変わる。
「なんだかしょぼいわね」
二人で並んでMacBookの画面を眺めながめているとサキがぼやくように言った。
「しょぼいけど、一応ゲームとしては成り立っている」
「だけど、全然かわいくないわ。そうね……私はもっと恐竜感が欲しいのよ」
「恐竜感」という言葉気に入ったらしくて、なんどか彼女は呪文を唱えるように繰り返した。僕はそれを聞きながら腕組みをして考える素振りをした。恐竜感という言葉は思いつかなかったが、彼女が満足しないことは予想していた。
「ねぇ。イラストを描くのは得意?」

2月13日、つまり課題提出の前日は出来上がったゲームの骨格をベースに、それを演出する作業を行った。パソコンで絵なんか書いたことがないわとサキは言ったが、ペイントソフト上にはなかなか可愛らしい恐竜の赤ちゃんの絵が出揃った。僕はネットから無料で使える効果音の素材をいくつか探してきて、画面が切り替わる度にファンファーレが鳴る細工を施した。もうその頃になるといくつかのコードを僕が書いていた。サキが書き溜めたの恐竜のイラストをエイヤッとゲーム画面に描画出来るようにすると、演出の作業は完了した。
「すごいわ。ゲームっぽい!恐竜感もあるわ」とサキははしゃいだ。
「これで、君は単位を落とさなくて済む」
「そうね、これなら平気よ。それどころか、なんだか私、自信が付いちゃった」
「プログラミングに?」と僕は訊いた。
「ううん。明日、ゲームを提出すると同時に授業中、作ったゲームをプレゼンしなくちゃいけないのよ」
「プレゼン?そんなのするのか」
「うん。だから私、作るからにはかわいいものを見せたかったの」
「プレゼンの準備はしなくていいのか?」
「大丈夫よ。時間は短いし、ゲームを見せるだけでいいの。それに私、人前で話すの、実は得意なのよ」

会計をしていると、いつもはそそくさ帰ってしまうサキが僕の後ろに突っ立っていた。
「明日も同じ時間にここへ来れる?」と彼女は訊いた。
「うん。来れるけども」と僕は答えた。
「お礼がしたいわ。大したことは出来ないかもしれないけれど。それじゃあ、また明日ね」
そう言うと彼女は振り返り、重厚そうな扉を両手で勢い良く開いて、凍える寒さの暗闇の中に消えていった。

プログラムが完成した安堵感と、考えるべき問題を失ってしまった寂しさを感じながら横浜の家に帰った。シャワーを浴びて、ツボ押し棒で背中やら肩やらを刺激しながら、なんとなくサキのことをずっと考えていた。お礼ってなんだろう。別に要らないのにな。でも、なんだか楽しかったな。……彼女は僕のことをどのように思っているのだろうか。

一瞬、取引先からの電話だと思った。バイブ音が甲高く鳴った。せっかくJavaで作り直したのにまた仕様変更を言われるのではないかと疑ったが、杞憂だった。携帯電話は光ってもいなかった。その代わり、ワンダーフォンが震えていたのだった。