ゆーすけべー日記

はてなBlogってどーなの!?

ワンダーフォン #04

記録的な大雪となった2008年1月の下旬、僕は横浜の自宅アパートの一室で、ワンダーフォンの発信の仕方を発見した。手に持って十回ばかし小刻みに揺すればいい。すると、今度はワンダーフォン側が振動し、サリーに電話をかけることが出来る。数秒すると相変わらずの音程の高低差のない平坦な、抑揚もない声で彼女——サリーが電話に出る。「何がお望みでしょうか?」と。なるほど。僕は言った。
「この電話はなんでも願いを叶えてくれるのか?」
「はい、その通りです」
「なんで、そんな電話を僕は持ってるんだ?」
「それにはお答えすることが出来ません」
「なぜ?」
「所有者の方からの希望だからです」
所有者?誰かのものを僕は借りているというのか?
「まぁ、いいや。じゃあ例えば、今ここで俺が美味しいものを食べたいと君にお願いしたらどうなるんだ?」
「あなたはそれを本当に望んでいるのですか?」
僕はその時、大雪のせいで本当に仕方なく、カップラーメンを食べていた。
「ああ、カップラーメンはあんまり好きじゃないんだ。他に何か美味しいものが食べたい」
「望みはありますか?」
「望み?」
「何が食べたいのですか?」
……そうだな。僕は彼女を試すつもりで言ってみた。
「カオマンガイ」
3秒ほど間が空いてからサリーは答えた。
「了解しました。あなたの望みは叶います。でも、気をつけてくださいね。それでは」
僕はフェードアウトして何も映らなくなったワンダーフォンのディスプレイをしばらく眺め、デスクに置いた。ハーマンミラーのセイルチェアーに腰掛け、ツボ押し棒で肩の辺りをグイグイしながら、カオマンガイを待った。ダウンジャケットを着て、ベランダに出て煙草でも吸おうかと思った時に、インターフォンが鳴った。
「カオマンガイお届けに来ました」

只今キャンペーン中で料金はいりませんという、ありがたいにもほどがある、というかびっくりするようなことを告げながら、二つのポリ容器に分けて入れられたカオマンガイを赤いキャップを被ったアジア系の青年から受け取った。

やたらパクチーが添えられてて、やたらソースが辛くて、やたらカオマンガイはうまかった。不思議な電話……そいつを眺めながら、瞬殺で僕はカオマンガイを平らげた。

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この浅間町のアパートに越してくる前に、僕は同じ横浜駅周辺で、とある女の子と同棲生活をしていた。だいたい期間は一年ほどだろう。僕らは仲が良く、お互いを愛していたし、同士だと感じていた、それに、良き相棒とも捉えていた。本屋に一緒に行って、リクルートが出していてる「結婚ハウツー」的な本を一緒に眺めて、僕らは「結婚ってどうやってするんだろうね」と語りあったりもした。いくらそういった思いがあっても、もしくはそういった情報があっても、僕にとって結婚をするという儀式は——少なくともその当時は——想像するのが不可能なことであった。僕自身、それなりの収入を得ているし、彼女だってアルバイトの延長のようなものだけど働いていた。体制は整っているはずだった。けれども、一歩がいくらなんでも踏み出せなかった。

彼女とは辛い別れ方をした。彼女は浮気をしていた、はずだった。しかし、僕にはそれを問い詰めることも出来ず、ただただ、夜遅くに酒臭くなって帰ってくる彼女を介抱するだけだった。とある金曜日の深夜、いくら経っても返ってこないものだから、電話をしたが、すぐに切られた。あとからメールで「バーの仲間とカラオケに行ってくるから心配はいらない」と返ってきた。僕は3時まで起きていたが結局寝てしまった。朝7時に彼女は顔色を悪そうにして帰宅した。トイレに駆け込み、ゲーゲー嘔吐する彼女の背中をさすりながら、この感情はなんだろう?と考えた。そして僕は気づいた。

「少しでも彼女を疑ってしまっているんだ」

それからだった。打ち合わせなどで外出すると(いくらフリーランスと言えども外に出ることだってある)、家に帰るのが怖くなった。もしかして、彼女がいるかもしれない。もしかして、彼女は遊びに行って、いないかもしれない。それを考えることをしたくなかったのだ。しばらく、駅と家の間の歓楽街を往復し、外れにあるジョナサンに入り、生ビールのグラスを数杯おかわりし、暇を潰した。家に帰っても、彼女がいることはなかった。

こういう時期が1ヶ月も続いた。これは実に辛いことだった。

シゲルに相談した。相談する相手など彼くらいしかいなかった。彼は言った。
「なるべくニュートラルに切り出せばいいんですよ。別れるか、続けるか」

夏の終わりの風が心地よい、9月のとあるよく晴れた日曜の午後。寝室でテレビを観ている彼女に、「話をしよう」と話かけた。彼女は「この番組を観終わってからでいい?」と言った。僕らは一緒にそれを観た。松岡修造がテニスマシーン相手にマッチをするというお笑い番組だった。二人して笑った。それが僕らにおいて最後の微笑ましい光景だった。

僕は切り出した。なるべくニュートラルな状態を心がけて。
「どうする?そろそろ決めた方がいいと思うんだ。続けるか、それとも……」
彼女は用意していた台詞かの如く言った。
「もう、無理だと思う」

その瞬間に、僕は段取りを考え出した。そのアパートは諸事情で彼女の名義で借りていたものだ。僕は今すぐ出てくるから、と彼女に言って、ヤマト運輸に電話をかけて、荷物の集荷に来てもらい、七箱分のダンボールに自分の所持品をまとめ、二時間後にはその家を出た。もう二度と彼女と会うことはなかった。

あれから僕はガールフレンドをつくることに興味を無くした。その代わり、人恋しさは常にあった。自宅で仕事が出来てしまうため、人と関わることが他人と比べても相対的に少ないからかもしれない。時間が自由に使えるからかもしれない。仕事をさっさと片付けても、残るのは暇な時間だけだ。暇は時として、いや、おおよそ大体において、孤独をもたらすのである。

雪解けで、コンクリートの地肌が見えてきたのをベランダから見つめながら、ワンダーフォンを右手に握りしめ、僕はそいつを何度か振った。サリーが出た。
「はい。サリーです。お望みは何でしょうか?」
僕はサリー相手なら正直な気持ちを話せるような気がした。なんたって、音声読み上げの声をしている、あくまで機械っぽい存在だ。
「なんだろう。たまにすごく寂しくなる時があるんだけど、なんとかならないかな?」
サリーはいつもより早口で答えた。
「それは望みではありません。あなたの気分です。この電話の使い方をわきまえて下さい。では」
電話が切れた。

なんだかサリーに見透かされている気がして、恐ろしくなった。それから僕はワンダーフォンの使いみちを探ることになった。僕は何を望んでいるんだろうか?と。

ワンダーフォン #03

ワンダーフォンは今思えば、デバイス的観点から言っても不思議なデバイスだった。物理ボタンは皆無だし、MicroUSBなどのケーブルの先っちょを差し込む穴もなかった。かまぼこ板を薄くスライスして真っ黒く塗りつぶして、かろうじてディスプレイのある(と思われる)表側が分かる鉄板のようなものだ。四つ角のエッジはヤスリがかけられたように丸くなっており、へりも若干カーブしていた。裏にりんごだかのマークもなかった。シリアル番号も当然書かれていない。手に持つとひんやりと冷たく、レモン一個分ほどの重さがあった。当時持っていた折りたたみ式の携帯電話よりもずっしりとした。穴という穴がないので、解体することも出来ないし、相手の声を発するためのスピーカーすらついていなかった気がする。当然カメラのレンズもない。謎い。

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元旦の早朝から、僕はワンダーフォンを部屋のデスクに置きっぱなしにしておいた。そのデスクは六畳一間のアパートのバルコニーに面してぽつんと立つ、無印良品の通販で購入したとってもシンプルなものだった。大抵、その上には作業用のMacBook Air 11インチと冷めたコーヒーが入ったマグカップがあり、手に届く場所にワンダーフォンが転がっていた。何かを刺す穴もないので、充電のしようがない、と雑に扱ったけれど、アヤコとセックスすることを仕向けた、サリーから着信があった電話だから、気になってチラチラと覗いたりした。けれど、そいつは微動だにしなかった。

フリーランスのプログラマーというのは(少なくとも当時の僕にとっては)仕事をある程度選べる。僕はその年の年末年始の業務を放棄することにした。ウェブ関係のバックエンドのプログラムを書くのを本業としていたのだが、こうした仕事にも忙しい時期と暇な時期、それに忙しいことを必ず強要される時期、というのが存在する。例えば、<あけおめ砲>という業界の言葉がある。1月1日の深夜0時の前後に、みんなして一斉にネットに「あけおめ、ことよろ」的な文言を書いたり、打ったりするもんだから、サーバーが落ちたり、データセンターが火を吹いたり、誰かがクビになったり、人が自殺したりする現象だ。こういうのに巻き込まれたくないので、今年の年末年始は仕事を取らないと決め込んだ。ひとたび、仕事をしない時期がやってくると、波というのがあるもので、しばらく暇な期間が続くこととなった。

ふと思い出し、アヤコ——源氏名「リサ」が所属するヤングガールのホームページを検索してみた。随分、丁寧に作り込まれたウェブサイトが出てきた。発注したら相当な予算が必要だろうなと勘ぐりながら、在籍表を見ると「リサ」という名は見当たらなかった。なんどもページ内検索をしても、ヒットはしなかった。アヤコはそもそも在籍していなかったか、僕に告げた通り彼女は足を洗った。アヤコは一ヶ月後に辞める、と言っていたけれども。

世の中的に「正月休み」が空けると、横浜駅近くにあるシステム会社の友人を誘って、飲みに行った。シゲルという僕よりも二つ年下の男で、僕よりも優秀なプログラムを書き、オープンソースプロジェクト(プログラミング世界での奉仕活動のようなもの)へよくコミットしていて、背の高さは僕より顔一個分くらい低く、ドラえもんのような図体をしていた。根が謙虚らしく、僕が近隣で唯一、先輩ヅラをできて、かつ、僕が自由に話をする相手として最適であった。僕らは西口にある大衆居酒屋に入り、生ビールで乾杯して、イカの刺し身をつまんだ。僕はシゲルにワンダーフォンを見せた。
「中、何入ってるんでしょーねー」
彼にも、この不思議なデバイスのことは分からないらしく、僕が出した結論以上のことは把握出来なかった。サリーという機械音の女性から着信があった件は伝えたが、アヤコとソープランドでやったことは言わなかった。
「で、電話と言っていいんでしょうかね……どこの電波帯使ってるんだろう」
彼は色んな角度からワンダーフォンを眺め、手で持って重さを確かめ、顔を近づけた。やはり無駄な努力だった。シゲルはそれに飽きると、別の話題に移り、画像解析プログラムの可能性について語りだした。僕は適当に相槌を打ってやりつつ、まぁ、こいつにも分からないこともあるもんだ、と思った。

それからも、ワンダーフォンは僕の片隅に常にあった。フリーランスというのは自宅で仕事が出来る。デスクにはワンダーフォンが置いてある。そいつを引き出しにしまうことも出来たが、僕の部屋には引き出しと呼べるものはクローゼットに辛うじて存在する衣装棚くらいだったし、なんだか気になって、僕はワンダーフォンをそばに置いていた。

「着信があったからには発信も出来るんじゃないか?」

積雪10cmの大雪の降った1月の下旬。コンビニに行くのも億劫で、ストックしてあったカップラーメンをすすりながら考えた。
「でも、ボタンも何もないぞ」
こういう時にプログラマーという職業をしていると便利なことがある。ありとあらゆる、発信する方法をなんでも試行錯誤するのだ。まずディスプレイを指で押してみた。何も起こらなかった。次に、右手に握って、上に掲げてみた。何も起こらなかった。そのままの格好で、ワンダーフォンを揺すってみた。ブルブルブル。最初、それが自分で引き起こした振動なのか、それ自体が震えているのか?が分からなかった。実際問題、揺するのが正解だった。僕は発信する方法を見つけたのだ。ディスプレイが光り、相変わらずダサい、縦書きの明朝体で「サリー」と印字され、その電話は発信状態を表していた。あまりにも、うまく行き過ぎな気がして、思わずカップラーメンを倒してぶちまけそうになった。ワンダーフォンのバイブが止まった。
「はい。サリーです。何がお望みでしょうか?」

こうしてサリーとのキャッチボールが出来るようになった。

ワンダーフォン #02

たしかに下心はあった。

僕が2008年の元旦の朝4時に手に入れた不思議な電話——ワンダーフォンに着信を入れた女性「サリー」は言った。これはあなたの望みを叶える電話です、と。彼女の導かれて辿り着いたソープランド「ヤングガール」の源氏名「リサ」、つまり僕の幼馴染であるアヤコと大晦日ぶりにそういう場所で——僕は彼女が風俗で働いていることを当然知らなかった——出会うことは望みを叶える電話の機能として合点のいくことだった。

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「60分コースね?この店初めて?」
と切り出し、アヤコははしごのように急な階段を僕の手を取りながら部屋へ導いた。室内は薄暗く、赤茶けていて、銀色と思われるマットが膨らまされて立てかけれ、シャワールームとバスタブ、それにシングルサイズのベッドが置いてあった。

「よく私がここで働いてることが分かったわね?」と僕のダウンジャケットを受け取りながら彼女が訊いた。僕はワンダーフォンのこと、サリーのことを思わず隠した。
「たまたまだよ。姫始めってやつさ」
「そのわりには、指名したじゃないの。まぁネットに写メ日記載せてるからね」
アヤコはさほど気にしない風であった。さて、問題はソープランドにアヤコの客として僕がいることだった。アヤコは中学校の同級生で、彼女は学年でもヒロイン的存在だった。僕らグループとつるむことがあったが、僕自身は当時さほどお喋りをする仲ではなかった。昨日の大晦日——やっと思い出したのだけれど——地元藤沢のファミレスで仲間達が集っていると聞き、プジョーに乗って彼らのところに駆けつけた。すると、その中にアヤコがいた。27歳になっていた彼女は肌の艶こそ衰えたものの、まだ輝きを放っていた。中学の時に引っ込み思案だった僕は、好きな娘はいるのか?と尋ねられると、人気だからという理由を付けて、アヤコの名前を挙げていた。口にするとそれが本気に思えてきてしまう。それもあってか、久しぶりに会う独身のアヤコを見ると懐かしさと同時に、(簡単にいってしまうならば)下心のようなものを抱いていた。望みを叶える電話か。サリーのやつめ。そうこう考えているとアヤコが訊いた。
「ベッドにする?マットにする?私、マットそれほど得意じゃないのだけれど」

結局、僕はアヤコとやった。驚くほどすぐにたくさん出た。でも、期待した以上に興奮はしなかった。ことの最中、何故か、サリーの音声読み上げのような声が頭の遠くで響いている気がして、集中出来なかったせいもあるかもしれない。不思議な電話の効力に驚いていたからかもしれない。女なんてみんな一緒だ、と僕は射精してから自分を説得した。

靴下を履いているとアヤコが言った。
「私ね、来月で足を洗うことにしたの」
「この店辞めるってことか?」
「ううん。風俗辞めるの」
「ふーん。新しい仕事に付くのか?」
「そう、地元で保険を売るの」
「まぁ、この仕事大変だろうからな」
「そういう理由じゃないんだけどもね……」
その時、部屋に備え付けのインターフォンのベルが鳴った。「はい、お客様、お帰りです」と彼女が答えた。

急な階段を今度は僕が手を取って、降った。微かな声でアヤコが囁くものだから、僕は後ろを振り向きそうになったが、転げ落ちそうになったので、耳だけ近づけて聞いた。
「あなたに会えて、嬉しかったのよ。昨日も今日も。あれは中学の頃だっけ。放課後あなたがセブンイレブンの前で、小枝のチョコレートを半分私にくれたの今でも憶えているのよ。あの時楽しかったわね」
階段が終わりに近づいてきた。僕は立ち止まると、彼女が僕の背中に胸を押し付ける格好になった。そのまま耳元に口を近づけると、彼女は言った。
「ねぇ、サリーに頼めば、また私と遊べるわ。じゃあね、タカシ。待ってるわ」
「お客様、お疲れ様でした!」という勢いの良い声と共に、チョッキの男が顔を出し、オシボリを差し出してきたので、僕は振り向く間もなく、それを受け取った。

アヤコがサリーのことを知っていた。あるいは、追加するならば、ワンダーフォンのことも存じているかもしれない。その時の僕にはひたすら不思議な現象にしか思えなかった。

パーフェクトハードボイルドエッグ #02

70枚の絵を描いて、動画編集ソフトで貼り繋げて、ありものの90年代UKロックをBGMにして、8分間の動画を作り上げて気づいたことがある。

僕は新海誠ではない

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誰かが、人間はクジラではないと言っていたのとおんなじだ。いや、まだマシな結論かもしれない。けれども、僕は何事も、自分で試してみないと教訓を得られないタイプの(それもおそらく希少な)人物であるらしい。横浜に住んでいる頃、体重が10kg増えるまでラーメン屋を巡ったことがあるし、10kg体重を減らすまで野菜のポトフを食べる自炊生活をしたくらいだ。ラーメンは太るし、野菜を食べれば痩せる。人の教訓は信じない。申し訳ないがただただ、聞き流している。僕は、自分でまいるまで試行錯誤をする愚かな存在である。潮を吹けないクジラではないことくらいは分かるけれど。

そういえば、卵の話だった——。

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ワンダーフォン #01

僕がワンダーフォンと出会ったのは2008年だ。Appleが日本でまだiPhoneを発売していない時期、ダウンジャケットを着ていた冬のことである。このように鮮明に時期を憶えているのは、それが1月1日の元旦、それも川崎堀之内でのことだったからだ。

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当時、僕は27歳で、横浜駅近くの浅間町で一人暮らしをし、フリーランスのプログラマーとして仕事をしていた。仕事は退屈だったが、それなりに収入もあったので、中古のスカイブルーのプジョー306を購入し、月額1万5千円の月極駐車場を借りた。結婚はしてないし、彼女もいないし、友達とは休日が合わないので、大抵一人で車を乗り回した。西に行くとしたら伊豆、東に行くとしたら銚子までドライブをした。まぁ、フリーランスなりに自由な時間を潰す日々を送っていた。

さて、2008年の元旦の朝4時。プジョー306の運転席の中で僕は目を覚ました。あまりにもそれ以前の記憶がないものだから、一瞬飲酒運転でもしたのかと思い、自分の息の匂いを嗅いだが、煙草臭いだけだった。リクライニングは全開まで倒されており、シートベルトは外されいた。フロントガラスの先は、民家の塀で、身体を起こさないとそこが、コインパーキングであることが分からなかった。プジョーは前進駐車されていた。

右手にひんやりとした真っ黒い鉄のかまぼこ板のようなものを握っているのに気づいた時に、そいつが震えた。今思えば、そいつはスマートフォン。のようなもので、今で言うApple iPhone7もしくはSamsung Galaxy S7に近い形状をしていた。真っ黒いかまぼこ板の表面はディスプレイ画面になっていた。バイブレーションしたとたんに、明朝体の縦書きで「サリー」と印字されて驚いた。解像度が高いはずなのにだいぶダサい。その割に、ユーザーインターフェースは親切で、それが電話の「着信」であることを理解するのにそうそう時間はかからなかった。そもそも混乱していた僕は、勢いで緑色の丸い「通話」ボタンを押した。電話口は女性だった。
「もしもし?」
「もしもし」とふてくされた感じで答えてしまった。僕には謎な状況すぎたからかもしれない。
「あなたはタカシですね?」
コンピューターの音声読み上げのような声で女性が言った。いや、実際そうだったのかもしれない。
「あ、はい。そうだけども……」
「これは電話です。分かりますね?」
なんかカタコトだ。
「う、はい。今、電話してますからね」
「そうその通り。あなたは優秀ですね。私は通話だけではなく、あなたが望んだ時にその望みを叶えられるように努力します。今からこれはあなたの電話です」
望み??
「望みを叶えるってどういうことです?」
「……車から出て、コンビニの横の路地を入った、ヤングガールという店に行きなさい。そこで『リサ』と告げるのです」
「はい?」その時の僕はそこが関東有数の風俗街であることを理解出来ていなかった。
「それで分かるはずです。それでは」
「ちょっと待って。あなたは誰?」
「私?私はサリーです」
耳をつんざくような鈍い機械音が聴こえ、かまぼこ板のディスプレイは真っ黒い状態に戻った。

この電話、もしくは電話のようなものは不思議だった。突起や凹みがどにもない。つまり物理ボタンが皆無なのだ。先程サリーから電話がかかってきた時のようにディスプレイを表示させることは、僕が能動的に行うことでは不可能のように思えた。

煙草を一本吸うと、車から出て、コインパーキングの向かいにあるコンビニの横の路地に入ってみた。点灯されていないネオン看板を見せびらかす薄汚れたソープランドが立ち並んでいる。それらの店舗の一角に、行列をなす店があって、驚いた。時刻は朝5時になる頃。それも元旦だぞ。そんなにヤりたいのか、と突っ込みたくなるほどの人混みだ。そして、その店がサリーの指定した「ヤングガール」だった。

もう、嫌気が差してきた。なんだって、急に手にした電話……のようなものの女に指図されて、ソープランドに行かなくてはならないのだろうか。こんな並んでるし。僕よりも断然若い、耳に派手なピアスをした青年は必死に「姫始め」という言葉を連呼している。うむ。とはいえ、興味がないわけではなかった。僕は今まで横浜の風俗には行ったことがあったが、川崎は経験がない。それにセックスは好きなことだ。まぁ男は誰でもそうだろう。それに彼女もしばらくいなくてご無沙汰だ。彼の言う、姫始めが出来るならそれはそれでありがたいじゃないか。でも、ここいくらするんだ?財布の中に一万円札入ってたっけ?

行列の先頭の先にある、店の扉から、チョッキを着た店員らしき人物が出てきた。10人以上の行列の男たちがみんなして、彼を見た。彼は、立ちすくんでいる僕の前までまっすぐやってきた。
「ご指名のお客様ですよね?」
む。サリーは女の子の名前を僕に告げたはずだったけど、なんと言ったのだっけ……?
「えーと、ミサさん」と僕は曖昧な記憶を辿り、一か八かで答えた。よくわからん電話を持たされている身だ。適当に答えてもいいだろう。
「リサさん。ですね。お待ちしておりました」
彼はそう言うと行列を丁寧に振り払うように扉の奥へ僕を招いた。少々お待ち下さいと、オシボリを渡され、しょっぼいカーテン越しにビニールのソファーが並べられた待合室に通された。誰かいるのかと思いきや、誰も座っていなかった。ただ、ガランとソファーが8席あるだけだ。

僕は奥から二番目の右手のソファーに腰掛け、かたわらに置いてあった、飴玉を舐めしばらく待った。なぜだか煙草を吸いたい気分にはならなかった。頭をもたげ、なぜ1月1日の4時に川崎堀之内にいたのか?ということに考えを巡らせた。元旦だぞ。正月だぞ。僕は先程まで何をしていた?車でどこへ行った?大晦日は何をした?

「リサさんで待ちのお客様。お待たせいたしました。お時間までごゆっくりお楽しみ下さい」
甲高い、店員の声と共に、カーテンが開かれた。僕が「料金は?」と訊くと、彼は「いただいておりますから」と答えた。疑問を抱く間もなく、奥の通路に案内された。

「右手入りますとリサさんがいらっしゃいます。ではいってらっしゃいませ」

仕方ないな。という気分と、ちょっとしたワクワクした心持ちと、不思議だなと思いながら、そちらの方向を向くと、急な階段があった。その三段ほど登った先に源氏名「リサ」と名乗る女性が薄いピンク色のキャミソール姿で立っていた。彼女は言った。

「あら?タカシじゃない。昨日ぶりね」

その頃からだろう、僕はその電話のことをワンダーフォンと呼ぶことにした。