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ゆーすけべー日記

はてなBlogってどーなの!?

ワンダーフォン #07

サキはやはり慶応の学生だった。現在は大学一年生。一芸入試のような推薦試験をパスして入学するものの、秋学期から授業へはあまり参加しなくなった。ヨーロッパの映画が好きで、家でDVDを借りてみたり、単館上映しているようなところへ出向いてよく観に行く、とペラペラと喋った。僕がどんな映画を観るのかと質問しても、彼女が答える作品はマニアックなものばかりで、僕が分かるものはアルフレッド・ヒッチコックが監督している作品くらいだった。
「大学に映画サークルくらいあるんじゃないのか?」と僕は訊いた。
「あるわ。でもあの人達とは趣味が合わないのよ」と彼女は言った。
「だからかもね。私、学校の授業が好きじゃなくなったの。それに、うちの大学やたらと、グループワークをさせるのよ」
「グループワーク?」
「そう。グループワーク。課題が出されてチームを組んで半年かけて最終発表まで準備するのよ。グループは3人から、多いときには10人。うんざりするわ。私、誰かとつるむのが極端に苦手だわ」
彼女は「OUTDOOR」のロゴが書かれた黒いリュックから、新しいパーラメントの箱を取り出して、カウンターの上に置かれたソリッドなジッポで煙草に火を付けた。
「情報処理はグループワークじゃないのか?」と僕は訊いた。
「違うわ。単独行動。それは嬉しいのだけれど、私本当にコンピュータが苦手なの。大学が始まるまでパソコンなんていじったことがなかったし、携帯だって未だにPHSよ。コンピュータ、興味はあるんだけどね。でも、この本によると私は今『Hello World』って表示しようとしているんだけど、なんでこんだけ苦労しなくちゃいけないのか分からないの。まず、MacBookを充電するところから苦労したわ。家に空きのコンセントがなかったのよ。充電ってそれなりに時間がかかるでしょ。テレビやら炊飯器のコンセントを抜くわけにはいかなかったわけ。だから、自転車で電気屋まで行って電源タップを買ってきたわ。それから、エディタってやつをインストールするのにも手間取った。やっとプログラムをかけると思ったら、このjavac<ジャバシー>ってのが動かないの。ねぇ、コンピュータを仕事にするってこんなに毎日大変な思いをするの?まるで堂々巡りのようだわ」
「ヤックシェービング」と僕は答えた。
「なぁにそれ?」
「ヤックっていうのはチベットだかモンゴルにいる毛の長い羊みたいな動物なんだ。その毛を刈るのはひどく手がかかる。君が『Hello World』を印字するまでに、タップを買いに行ったり、エディタをインストールしたりして、やることが膨れる様を『まるでヤックシェービングのようだ』と言ったりする。業界の用語なんだ。僕らの仕事はヤックシェービングを毎日やるような類いのものさ」
「へー。そんな動物がいるんだ。どれだけ毛が長いわけ?」
「それは知らないな。そんな言葉が出来るくらいだから相当長いんじゃないか50cmくらいかな」と僕は笑った。
「なんだかロン毛の動物って不気味ね」
「おそらく不気味な動物なんだろうね」
「まぁ、言い得て妙かもしれないわね。私はそんな動物の毛を刈るなんてやりたくないわ」
「うん。みんなそうかもしれない。とはいえ誰かが言ってたよ。『人生は大体においてヤックシェービングをしているようなものだ』とね」
「私、そんな面倒な人生嫌だわ」と彼女は吸い終わったパーラメントを灰皿に押し付け、もう一本取り出した。
「ひとまずこの『Hello World』っていうのをやってみたいわ」

僕とサキはコメダ珈琲の喫煙席の中央に置かれたカウンターテーブルに二人並んで座りながら、彼女のMacBook Proを眺め、主に僕がキーボードを操作し、プログラムを動かした。プログラムを書く上で最も初歩的な事柄である「Hello World」という文字列を表示させるのが第一関門だったのだが、まぁ僕はプロのフリーランスのプログラマーだ。なんども経験のしたことがあることだったし、うまくいかない事例を山ほど知っている。彼女の場合は「javac」というプログラムをコンパイルするコマンド実行のためのパス設定が間違っていた。それを指摘して作業を終えると程なく「Hello World」がターミナルソフト上で動いた。

「あら、これで動いてるの?」
「うん。これが『Hello World』。プログラミングの第一歩だよ」
「なんだかあっけないわね。でも、あなたすごいわ。私が一日中かけて悩んでいたことをあっという間に解決した」
「同じような経験を以前にも何度かしたからね」
彼女は腕にはめていた、小さな白いバンドのG-Shockの時計をチラリと見た。
「あら、私、そろそろいかないと」
「そうか」
「うん。バイトがあるの。ねぇ、明日もここへ来る?」
「来るよ。ここのコメダ珈琲は居心地がいいからね。仕事が捗る」
「よかったら、明日もこの『Java』って言うの教えてくれない?課題の締切がもうすぐなのよ」
「いつまでなんだ?」
「そうね……ちょうどバレンタインデーだわ」
「一週間しかないじゃないか」
「だから頼んでいるのよ。お礼は……考えておくわ」
「車で送ろうか?」
「いいのよ。どうせ自転車で来ているし」
そう言うと彼女は自分の伝票を素早く手に取り、席を立った。

これは2008年の話だ——もう、9年前になる。27歳の当時では感じなかった老いを今でははっきりと認識している。もう僕は若くはない。

過去の出来事を思い出すことは実に力のいることで、僕は27歳にタイムスリップして、その時の自分になりきり、神経をすり減らす。そして、このように拙い文章に書き起こしている。そうでもしないと、忘却してしまう事柄が僕の中にはたくさんあるのだ。とはいえ、それを忘れたくないのか、忘れたいのかは僕にはよく分からない。今やっている行為はある種の精神安定のための慰めだ。

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太宰治は自殺して、村上春樹はトライアスロンをしている。それが同じ動機からだと把握出来たのは最近のことだ。

自己治癒をしているはずが、自ら命を立ったり、身体を動かさなくてはいけなくなるのは本末転倒な気がするが、まぁそんなものだ。

そういえば、Linuxと呼ばれるOSソフトウェアの開発者リーナス・トーバルズはその開発動機についてこう言った。

Just for fun

我々は楽しいからそれをやっている。ただそれだけだ。